住職の閑話

宝満山にはその昔、勢力ある寺院が数多く存在していた。
最初は法相宗で、後に伝教大師が唐に留学する際立寄り、入唐求法の安全を祈り七躰の薬師仏を彫り、七つの寺に安置した時から天台宗になったと聞く。
最澄は、七躰の薬師如来の他、別に一躰の一仏像を彫ろうと桜の樹を伐ったところ、その桜の木から血がふき出した。最澄はこれは入唐の願が叶う証(あかし)だと喜びそれを地中に納め、その上に堂を建て試生身(こころみ)の薬師如来と号したと云ふ事である。
妙香庵にも不思議な御縁を頂く。玄界灘の海中より猟師の網にかかり引上げられし青銅の薬師如来御入来。伝教大師の御心づかいと感謝の気持ちで大切にお受けした。
もう一躰美濃国郡上八幡社に安置せられし如意輪観世音菩薩も同じく神仏分離令の被害者 今妙香庵で気高くその美しい姿を信者の皆さんと共に亡き笑いの人生のお手伝いを頂いている。
菩薩像も、又青銅でできている。明治元年の神仏分離令の時の多くの人々の困惑の様子が目に浮かぶようだ。

尼僧への道

♪山には山の憂いあり 海には海の悲しみが・・・・・・
私はこのアザミの唄が大好き。というよりも、刺だらけだった和歌忌避(わかきひ)の私を思い出すからでしょうか、何時のころからか口ずさむようになりました。
それは、早くに両親を亡くした切ない叫びだったのでしょう。

私は熊本市の川尻で、十人兄姉の九番目として暮らしていましたが、四歳の時、とある事件が、一家を嵐の中に巻き込んだのです。事件とは、棟上げのお祝いに配られたお饅頭の中に、毒薬が誤って入っていたのです。その饅頭を口にした乳飲み子の妹は即死。お饅頭を半分ずつ手にしながら外に遊びに出た兄と私。
母は妹の死に、まさかと思いつつ私達を必死に捜し回り、川辺に倒れていた私を病院に担ぎ込み、わたしの容態を見届けて死の世界に旅立ったそうです。
わたしだけが生き残った悲しい過去。亡き母を思うとき・・・。

十五歳のときの父との別れ。私は満州の兄の元に引き取られ、新京(現在の長春)での寒さの中、言葉も知らない異国の空で、故郷を思い涙した少女時代。
私の心の中に何が芽生えたでしょうか。戦乱の中、私の救急袋の中は両親を始め七体の位牌で一杯でした。友達に「みっちゃん、何でそんなものばっかり入れとうと?すかん」と、言われたことを思い出します。そのとき、私自身何故そんなことをしているか判りませんでしたが、今思い出しますと、私が仏様との出会いを頂いた原点ではなかったのでしょうか。
さまざまな山を越え、谷底から這い上がる思いをしながらの人生でした。

三十三歳の時、子宮癌の手術後から、私の人生に本当の仏様とのご縁を頂くことになったと思います。最初はキツネとかタヌキとか、いろいろな言葉に惑わされ、そんな時、梅谷仏具店の社長様や石村萬盛堂の社長様たちが心配されいろいろな寺院に連れて行って頂き、仏心の道へと導いて下さいました。
昭和四十六年八月、京都の真如堂の森観涛先生に師事を頂き、弟子となり得度をさせていただきました。
同年九月、比叡山行院へと導かれましたが、師匠の森観涛先生がお亡くなりになりどうする術も無く、悶々の日々を送っておりました。お別れにと比叡山に上り、各お堂を巡っておりました折、行院の院長であられました渡辺恵進先生と偶然に出会いお話をしているうちに、お弟子にして頂くことになりました。
御仏様にまたも救われました。

昭和五十四年頃から、福岡への帰省の心が騒ぎだした折、田主丸の観音寺の菊川春暁先生ご夫妻との出会いを頂いた日から、私の人生が一八〇度展開を致しました。それは傳教大師様とのご縁を結んで頂いたことです。
父の死後、十四歳のころ、熊本の木原不動様に、友達の兄さん達六名で奥の院に上る途中、二の滝に白衣を着た女の行者さんたちが、滝に打たれておられ、不思議な言葉を掛けられたことがあります。

「一番後ろにおられるそこな人。あなたは小さいときにお母さんを亡くしましたね。でも大丈夫。あなたの後ろにぴったりと付いておられるよ。元気を出してね。」と言われ、また滝の中にその行者は入っていかれました。
その木原の不動様が、菊川先生のお兄様のお寺でした。今思えば、天台宗のお寺へと導かれる道すがらではなかったのでしょうか。そのような気がしてなりません。太宰府に移り住むようになって、太宰府天満宮の森弘子先生と出会い、色々な話の中から、まさか弘子先生が、お世話になった萬盛堂の社長様のお嬢様だったとは、不思議な因縁を感じております。

昭和六十二年、菊川先生はじめ九州西教区の寺院ご住職の皆様方に支えられて傳教大師様の尊像落慶法要を迎えることが出来た感激を、今でも忘れることが出来ません。あの日から今年で二十五年を迎えます。ご存知のようにこの度、またも思いもかけない新宮の千年屋の法の灯をお引き受けすることになり、身の引き締まる思いを致しております。『蓮華のともし火』と名付けられました。
「袖振り合うも多生の縁」とか申しますが出会いの大切さを、身をもって教えられたような気がしてなりません。
これからの人生を、観音様、傳教大師様にご奉公させて頂きながら、皆様方とのご縁を、大切に大切にして生きて行きたいと思っております。
今後ともご指導の程、何卒よろしくお願い申し上げます。

住職 森 妙香