仏教の教えの中に仏法があります。
その教えの中に 神仏と同一化する
宇宙と同一化する
地球上の自然と同一化する。
人々と同一化する
今日は、、「人々と同一化する」を 取り上げてみます。
私たちはすでに肉体(人間)と同一化しています。本質は永遠の命もつ意識体です。
肉体の命は自己保守のため 自己中心的な思考や行動をくりかえします。
色で例えれば黒です。
私たちの本質(意識体)は。思いやり、慈しみ、愛し合う(無償の愛)思考や行動を
繰り返します。 色で例えれば白です。
これらが同一化して さまざまの思考、知識、認識、が生じてきます。
色で例えればグレーです。 グレーで生きることになります。
しかしながら 私たちは「私探しに」旅にでる行動をとる事があります。
本質の記憶は隠されてしまっても、意識が無意識に本質のゾーンに針がよれば
自ずとそうなります。 前置きはこのくらいにして 本題に入ります。
仏法の基礎の中で 諸法無我 諸法実相 諸行無常 があります。
諸法無我とは「我は無い」と言う釈迦のメッセージです。
我とはどこにありますか?の質問に「この体です」と答える人が半数あります。
生物、物理学者は ブーブーと鳴らします なぜなら体は細胞より形成され
細胞は原子より形成されることを知っているからです だから我は無い。
我は無いのに誰が苦しんでるの 無を説いてます。
諸行無常は この世のものは ありとあらゆるものが変化して実体が無い。
独立して固定化して他との関連を断ち切って変化しないで存在してるものは無い。
すべてが一翼をになって「生かし生かされてる」事を知りなさいとのメッセージ
諸法実相は 「実の姿」我が得た「思考、知識 感情、等々」の 思いは
同一化から離れて個人個人の自我を作り上げて「妬み怨み苦しみ」作り上げます。
それらは、夢想です 実体の無い、存在し無いものです。
それらを 「全て手放したとき 実相が見えてくる」とのメッセージです。
無い物に問題はありません したがって答えもありません それが答えです。
あるのは「愛の中にある永遠の命」です。
肉体から離れた意識はそこに向かって歩き始めます。
最寄りの駅で降りる意識もあれば 一つ前で降りる意識もあります。
意識によって色々です 願わくばみんなで一緒に最寄りの駅で降りたいものです。
最後に、豊臣秀吉の辞世の句をもって終わります。
露と落ち 露ときえにし わが身かな
わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
本気で向き合い行じる私たちを 同一化